● 会長コラム

 

                 NTT労組退職者の会      

             岐阜県支部協議会会長 武田康郎


八ツ寺町  (その6)

朝ドラ“半分、青い。”の舞台 東濃

 

 退職者の会岐阜県支部協議会のホームページをご覧頂き、まことにありがとうございます。ホームページに掲載される内容につきましては、随時に事務局で更新をしています。これが時間と労力をかなり必要とするため、結構大変な作業となっています。しかし、最近は大分慣れてきたようで、更新のスピードも増してきたように思います。折にふれてホームページをご覧頂き、ご意見などをお聞かせ頂ければ大変うれしく思います。

さて、会長コラム「八ツ寺町の6回目。これまで岐阜から大垣、各務原と順に書いてきました。本来ならもう少し中濃の各市を紹介したいのですが、少し順番を無視してNHKの朝ドラで一躍脚光を浴びることとなった東濃にスポットを当ててみました。 

ドラマ“半分、青い。”の「岐阜・故郷 編」の舞台となっているのが東美濃市にあるふくろう商店街というところ。もちろんいずれも実在しておらず、原作者北川悦吏子氏の創作によるものです。実際の撮影に使われたのは恵那市岩村町、さらにドラマの展開に伴って多治見市や可児市、美濃加茂市、土岐市、瑞浪市など各地で撮影が行なわれたようです。

 

さて、多治見・土岐・瑞浪の各市と笠原町は、瀬戸と並ぶ一大窯業地帯として発展しその歴史は奈良・平安の昔に遡ります。陶器の原料となる良質の陶土が、周辺の丘陵地帯に豊富に埋まっていたことが、この地域を屈指の陶磁器生産地に仕立て上げた主な理由であると言われています。この地域の陶業が最も盛んであったのは桃山期の頃と言われ、志野、織部、瀬戸黒、黄瀬戸など数々の名品が生まれました。しかしこのような茶陶作りは江戸初期までで、その後は磁器を中心とする日用品へと移って行きます。そして現在では、和洋の飲食器をはじめ、耐火煉瓦やタイル、セラミックス製品へと受け継がれています。


八ツ寺町  (その5)

名古屋・岐阜・飛騨への拠点 各務原

 

 退職者の会岐阜県支部協議会のホームページをご覧頂き、まことにありがとうございます。ホームページに掲載される内容につきましては、随時に事務局で更新をしています。これが時間と労力をかなり必要とするため、結構大変な作業となっています。しかし、最近は大分慣れてきたようで、更新のスピードも増してきたように思います。折にふれてホームページをご覧頂き、ご意見などをお聞かせ頂ければ大変うれしく思います。

さて、会長コラム「八ツ寺町の5回目。今回は各務原にスポットを当ててみました。 

各務原と書いて、「かかみがはら」「かがみがはら」「かがみはら」などいくつもの呼び方(読み方)があるようです。

各務原市の名称は遠く奈良時代の美濃の国各務郡(かがみぐん)に由来します。そのため、かつて名鉄・各務原飛行場駅は「かがみはら」と称しました。そのため市民の間でも物議を醸したこともあったそうです。

ちなみにJR高山本線の各務ケ原駅は「かがみがはら」と言うそうです。昭和44年、貨物取扱量の減少と名鉄電車との競合による乗降客の減少によって無人化されましたが、各種自動販売機の設置やスクリーンテレビ、各種遊戯施設などにより近代的待合室を持つ国鉄再建のモデル駅となりました。しかし当初の段階においては、暴走族や深夜族のたまり場になるのではといった警戒心が働き、周辺の地域では激しい反対運動がまき起こりました。今では鵜沼以東への通勤者や通学に便利であるとの理由から概ね好評のようです。

 

さて、各務原の正しい読み方はとなると各地域に結構こだわりがあるようで、ひとつに決めるというのもなかなか難しいようです。ところで、我がNTT労組岐阜県支部協の波多野事務局長、小野事務局次長のお二人は、いずれも各務原市の住人。ここはお二人の意見を聞いてみたいと思います。次回、請うご期待!


八ツ寺町  (その4)

東西日本の回廊 西濃

 

 退職者の会岐阜県支部協議会のホームページをご覧頂き、まことにありがとうございます。ホームページに掲載される内容につきましては、随時に事務局で更新をしています。これが時間と労力をかなり必要とするため、結構大変な作業となっています。しかし、最近は大分慣れてきたようで、更新のスピードも増してきたように思います。折にふれてホームページをご覧頂き、ご意見などをお聞かせ頂ければ大変うれしく思います。

さて、会長コラム「八ツ寺町の4回目。これまでに八ツ寺町名の由来や岐阜そして大垣についてあれこれ書いてきました。今回は個々の都市ではなく、岐阜県という地域に目を向けてみました。

岐阜県を表す言い方として「飛山濃水」があります。これは、飛騨が山岳地帯、美濃が濃尾平野を中心とする水郷地帯であったことに由来しています。この「飛山濃水」という言葉、歴史的には必ずしも良い意味ばかりで使われていた訳ではなかったようです。

昔は県議会における予算の奪い合いから、山岳地帯と水郷地帯の対立を表す表現として使われていたそうですが、近年、特に平成になってからは、岐阜県の自然の豊かさを表す言葉として使用されるようになったということです。

 

近代史において美濃は上方と江戸という二つの文化圏の接点として回廊の役割を果たしてきました。それだけに「美濃を制するものは天下を制する」と言われてきたのです。天下を統一せんとした織田信長は、まず美濃を攻め、稲葉山城を新たな拠点として「天下布武」を目指しました。改めて東西の接点としてこの地を考えてみますと、天下分け目の大決戦と言われる「関ヶ原の闘い」も、この地で戦われる運命にあったように思えます。


八ツ寺町  (その3)

奥の細道むすびの地 大垣

 

 退職者の会岐阜県支部協議会のホームページをご覧頂き、まことにありがとうございます。ホームページに掲載される内容につきましては、随時に事務局で更新をしていますが、これがなかなか大変なようです。もう少し慣れてくれば、作業効率も上がり更新のスピードも増してくると思います。いましばらく気長にご覧頂きたいと思います。

 

さて、会長コラム「八ツ寺町の3回目。これまでに八ツ寺町名の由来、岐阜という地名の由来について書いてきましたが、今回は西濃に目を転じ大垣について書いてみたいと思います。

その昔、国鉄大垣駅(現JR大垣駅)の正面玄関を出たところに通称「カメ池」という池があり、その名の通り何匹かのカメが泳いでいました。カメが泳いでいることを除けば、何の変哲もないただの小さな池でしかありません。しかしこの池の水は、実は大垣を象徴する自噴水によるものでした。大垣市を中心とする西濃平野一帯が、わが国最大の被圧地下水による自噴帯であったことによるもので、大垣のことを水の都・スイトと呼ぶようになりました。

 

豊富な地下水は、近代工業にとっては魅力的なものであり、大正初期以降多くの工場がこの地に進出することとなり、県下第一の工業都市となって行きました。しかしこうしたことによって多くの水を消費した結果、ついには地下水位を低下させることとなり、昔のような自噴力はなくなってしまいました。

自噴水の町大垣は、また水運の町でもありました。内陸都市大垣の伊勢湾に通ずる重要なルートが水門川であり、ここを通る水門川水運は昭和になってもなお機能を持ち、昭和5年当時には年間およそ1万艘の船舶が通行したといいます。今では過去の賑わいを住吉燈台や芭蕉の蛤塚に偲ぶのみです。

 

奥の細道の旅を終えた芭蕉は、ここより船に乗り桑名に出て伊勢に向かうことになります。「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」と詠んだ芭蕉。時に元禄二年(1689年)9月のこととされています。


八ツ寺町  (その2)

  信長の 太平の夢 岐阜

 

 退職者の会岐阜県支部協議会のホームページをご覧頂き、まことにありがとうございます。ホームページを立ち上げてから、早いもので半年あまりが過ぎました。ホームページに掲載される内容につきましては、随時に事務局で更新をしていますが、これがなかなか大変なようです。もう少し慣れてくれば、作業効率も上がり更新のスピードも増してくると思います。いましばらく気長にご覧頂きたいと思います。 

 

さて、会長コラム「八ツ寺町の2回目。前回は八ツ寺町の町名の由来について書いてみました。今回はその続きとして「岐阜」という地名の由来について書いてみたいと思います。信長がこの地を岐阜と命名する場面は、太閤記を始めNHKの大河ドラマなどでこれまで何度も登場しています。諸説あるようですが、信長が直接命名したとする説と、信長の命を受けた尾張政秀寺の僧・沢彦宗恩が命名したという二つの説が主流のようです。そして命名の由来についても二つの説があります。ひとつは、中国で縁起が良い地名とされる「岐山」「岐陽」「岐阜」の中から選定したとする説。もうひとつは中国の故事に習い、岐と阜のそれぞれの意味を生かし組み合わせたという説です。どちらが真実であるか定かではありませんが、私は個人的に後者を支持したいと思っています。

  

岐と阜を組み合わせて命名したという説について、もう少し詳しく紹介します。

 岐阜の岐は、古代中国に実在した地名「岐山」に由来し、周の文王はこの地で800年の太平の世を築きました。岐阜の阜は、これもまた古代中国に実在した地名「曲阜(きょくふ)」に由来し、学問の祖である孔子の生まれた地です。岐と阜のふたつを組み合わせ「岐阜」と命名したのは、戦乱の世に終止符を打ち、太平と学問の地を築こうとする信長の熱い思いがあったと言われています。本当のところはわかりませんが、私はこちらの説の方が天下統一を図ろうとする英傑・織田信長らしいような気がして、どうしてもこちらの説を支持したくなってしまうのです。皆さんはどう思われますか。

 

正式な改称の時期は、「井口(いのくち)を改め岐阜とする」とした永禄10年(1567年)のこと、今年はそれから450年目の節目の年にあたるということで、岐阜市では様々なイベントが開催されています。分かっているようで、意外と分かっていないのが郷土のこと。これを機会にイベントに出かけ、郷土の歴史や様々な人物像に触れてみるのも案外楽しいかも知れませんね。


八ツ寺町  (その1)

  美濃を制する者は天下を制する

 

 退職者の会岐阜県支部協議会のホームページをご覧頂き、まことにありがとうございます。

以前からホームページを立ち上げたいという思いはありましたが、費用の面とかメンテナンスの手間とかといった様々な問題を考えると、難しさばかりが先に立ち、なかなか具現化することができませんでした。

 幸いにもこの度、岐阜地区協の会員の協力によりこれらの諸問題を解決でき、ようやく念願のホームページを開設することができました。

 

ご覧を頂きました通り、会長コラムを八ツ寺町と名付けました。八ツ寺町は皆さんご存知の通り、NTT労組岐阜分会の事務所のある所、そしてその中に私たち退職者の会岐阜県支部協議会の事務局も同居しています。言わば、私たちの活動の拠点ということになります。退職者の皆さんの日々の暮らしや健康、時折々の政治的なテーマなど、少しでも役立つ情報を提供して行きたいと考えています。

 

ところで皆さんは「八ツ寺町」という町名の由来をご存知でしょうか。歴史的に考察をしてみますと、城下町・岐阜というキーワードが出てきます。面倒な話しを全部省略しポイントのところだけを解説しますと、戦国武将・斉藤道三が金華山に稲葉山城を建立し、ふもとの一帯に城下町を形成した。稲葉山全体を城地とするために、山上山下にまつられていた神祠(ほこら)をまとめて因幡神社(現在の伊奈波神社)を建立した。道三の没後、新たな城主となった織田信長の手によって、因幡神社の周辺に浄土宗・西山派の八か寺、善澄寺・含政寺・極楽寺・大泉寺・安楽寺・浄土院・誓安時・西光寺を移転させた。この八か寺は元々別の場所(加納村、八ツ寺町)にあったものであり、現在の八ツ寺町という地名はその当時の名残であり、その後の歴史の中で現在の場所となった、ということです。

 

今年は織田信長がこの地を「岐阜」と命名して450年の節目を迎えます。織田信長は岐阜城から眼下に広がる濃尾平野を眺め「美濃を制する者、天下を制する」と言ったとか(言ったのは斉藤道三だという説もあります)。現代を生きる私たちには「天下を制する」というような大それたことは到底できません。しかし、ただ黙って世の移り変わりを眺めて暮らすというようなこともできません。この世の中で起きている様々なことに正面から向き合い、不条理なことを許さず、社会正義を貫く集団として、着実な活動を展開して行きたいと思っています。