●会長コラム

 

                 NTT労組退職者の会      

             岐阜県支部協議会会長 武田康郎


八ツ寺町  (その23)

今回は“干支”のお話し

 2023年の干支は「癸卯(みずのと・う)」です。それがどうしたと言われそうですが、実は干支には深~い意味があるのです。

 

 そもそも干支は中国の古い思想「陰陽五行思想」をもとにした60年周期で循環する暦のことで、それぞれに意味があります。それによると「癸卯」は、「寒気が緩み、萌芽を促す年になる」とのこと。コロナ禍以降、停滞していた世の中に、ようやく希望が芽生える春がやってくることを期待してしまいます。ただし今まで培ってきた自身の力が試される年であることも意味しているため、最後まであきらめることなく、くれぐれも無理をし過ぎないことが道を切り開く鍵になるようです。ここで一点、注意をしておきたいことがあります。「陰陽五行思想」では、1年は立春から始まり、節分で終わるということです。つまり2023年の干支「癸卯」は立春の24日からスタートするということです。ここからすると元旦はまだ旧年中ということになります。貴方にとって2023年の萌芽をより大きなものとするために、立春の日に新たな願掛けをしてみるのも良いかも知れません。


八ツ寺町  (その22)

郡上踊りのうんちくあれこれ♬

 

今回は郡上踊りの2回目。今回は、知っているようで意外と知られていない郡上踊りの“うんちく”について紹介してみたいと思います。

さて、郡上踊りは日本を代表する民謡踊りのひとつで、その起源は今から430年前の文禄4年頃と言われていることは前回紹介しました。しかしそのルーツについては諸説あるようです。江戸時代の初代藩主であった遠藤慶隆が領民の親睦を図るために推奨したという説、もう一つは江戸時代中期の藩主であった青山氏の時代に、百姓一揆の後の人々の心の融和を図るために推奨したという説、いずれの説が正しいのかは分かりませんが、郡上藩と領民にとって身分の垣根を超えた重要な行事であったことは間違いがないようです。また郡上踊りは終戦の日にも開催されています。1945815日、官憲からは「中止せよ」との勧告があったそうですが、「英霊を慰めたい」との住民らの強い要望によって開催にこぎつけたそうです。

踊りの種類は「かわさき」「春駒」「三百」「ヤッチク」「古調かわさき」「げんげんばらばら」「猫の子」「さわぎ」「甚句」「まつさか」の10種類。躍る曲の順序は日によって異なりますが、「まつさか」は必ず最後に躍る曲と決まっています。これは「まつさか」が拍子木と歌のみを伴奏にしているため片付けの手間がかからないからだということです。1996年(平成8年)には国の重要無形民俗文化財に指定されました。 

これを踏まえ外務省・国民文化審議会は、郡上踊りを含めた日本国内の「風流踊」を無形文化遺産に登録するようユネスコに働きかけています。


八ツ寺町  (その21)

一銭五厘の焼きサバ焼きサバ

 

今回は郡上おどりについて書いてみたいと思います。

郡上踊りは日本を代表する民謡踊りのひとつで、その起源は今から430年前の文禄4年頃と言われています。平成8年には国の重要無形民俗文化財にも指定されました。郡上おどりには、ゆったりした調子の“かわさき”やテンポの速い“春駒”など全部で10種類があります。

ところで、その昔“サバ”という踊りが郡上おどりの中にあったことをご存知ですか。これは“春駒”の旧称で、メロディーは全く同じですが歌詞が違っていました。春駒は「七両三分の春駒春駒」で始まりますが、サバは「一寸五厘の焼きサバ焼きサバ」で始まります。その後の歌詞も春駒とは全く別のものです。(YouTubeで見ることができます)

海のない郡上で焼きサバとは?と不思議に思われるかも知れません。明らかに他所から持ち込まれ、その後郡上に民謡として根付いたものと思われます。おそらくは幕末から大正にかけて油坂峠を越えてやってきた、越前の焼きサバ売りがそのルーツだろうと言われています。


八ツ寺町  (その20)

「オミクロン株」命名の由来 

 

前回に続いて新型コロナウイルスについて書きたいと思います。

新型コロナウイルス感染症が最初に国内で見つかったのは昨年の1月16日のことでした。ですからもう二年あまりに亘って、私たちはこの厄介なウイルスに翻弄され続けていることになります。なにせ相手はウイルスですから目に見えません。そのため、ひたすら予防を心掛けることしか自らを守ることができません。三密を避け、マスクをし、手指の消毒をする、こうした行為はもはや日常になって来ました。効果のほどは定かではありませんが、なにせ自らの命に関わること。ここは素直に従うことが賢明な判断かなと思います。この原稿を書いている段階では、新たに「オミクロン株」という新種が登場、またまた世間を騒がせています。

ところでこの「オミクロン」という名称、様々な憶測を呼んでいることをご存知ですか。日本では変異ウイルスについてイギリス株やインド株のように、その変異ウイルスが最初に確認された国や地域の名称で呼んでいました。これについてWHOは、感染症の名称に国や地域・人名などを付けることは差別や偏見につながるとして禁止しました。その代わりに使用されることになったのがギリシア文字です。これまでに1番目の「アルファ」から12番目の「ミュー」まで使用され、順番で言えば次は「ニュー」の番ですが、これは英語のニュー(新しい)と混同されるからダメ、それではその次の「クサイ」はどうかというと、クサイの英語表記は「i」であり、中国の周近平主席の「周」と同じ表記だからダメということで「オミクロン」になったとのこと。・・・・果たして真相や如何に。 


八ツ寺町  (その19)

このぬかるみは、どこまで続く!?

 

 前回に続いて新型コロナウイルスについて書きたいと思います。政府の目論見では、もっと早い時期にワクチン接種が終わり、もっと早い時期に感染が沈静化するというストーリーであったと思います。しかしこの目論見は残念ながら外れてしまいました。ワクチンの確保に手間取り、集団接種や職域接種にブレーキをかけるような有様です。

 こうした対応の悪さが「デルタ株」のまん延に歯止めをかけられず、事態をどんどん悪化させてしまいました。政府対応の悪さについて、感染の拡大を「人災だ」と人々は感じ始めているのです。そして、コロナ対策の優等生と言われた岐阜県も、ついに「自宅療養」の開始に踏み切ることとなりました。心配なのは、一体いつまでこの状況が続くのかということです。いつになったら終息の兆しが見えてくるのか一向に分からないことです。日本人は忍耐強い民族だと言われていますが、ひたすら辛抱することにも限界があると思います。コロナ後の経済復興を順調にするためにも、もうそろそろ心に響くメッセージが必要なのではないでしょうか。


八ツ寺町  (その18)

雨過天晴 雨が過ぎれば青空が広がる

 

「皆さんお元気ですか?」 新型コロナウイルスが猛威を振るう中では、こんな日常的な挨拶ですら重い意味を持って来ます。さて、連載コラム・八ツ寺町も18回目を迎えることとなりました。前回まではNHK大河ドラマ「麒麟が来る」にスポットを当て書いて来ましたが、テレビ放映も2月7日の最終回を持って終了となりました。これからは、「八ツ寺町」の本来のスタイルである、岐阜県内の各地にスポットを当て、歴史や文化、地域の話題や産業などを紹介して行くというスタイルに戻して行きたいと思っています。

さて、再開後最初のテーマはやはり新型コロナウイルスについて書きた

いと思います。残念ながらワクチン開発では我が国は諸外国に後れをとってしまいましたが、今や日本の製薬会社も治療薬の開発を急いでいるようです。岐阜県内でもそうした企業が動き始めています。「特効薬」であるかどうかはともかく、こうした新薬が効果を発揮する日はそんなに遠くないと思います。予防法や治療法が確立されれば、物事は悪い状態から良い方向に向かって行きます。雨が過ぎて青空が広がる「雨過天晴」がやって来ます。


八ツ寺町  (その17)

特集・麒麟が来る (その6)

 

話題の大河ドラマ「麒麟が来る」について書いて来ましたが、今回はその6回目になります。前回では物語のクライマックス「本能寺の変」にスポットを当てて書いてみました。さて皆さん、「麒麟が来る・最終回」をご覧になりましたでしょうか?

ご覧になった方は、どう思われましたか?私は少々ガッカリしました。「本能寺の変」と言えば物語のクライマックス。大事に至る前の部分は、当然丁寧な情景描写があると思っていましたが全く無し。さらに本能寺の変の後についても、殆どと言って良いほど描かれませんでした。放映開始直後に女優の不祥事が発覚し、急遽撮り直しが行われたり、新型コロナウイルスによる中断があったりしたために、放映のスケジュールが大きく変更されました。そのため本来なら1月から12月にかけて放映されるはずの大河ドラマが、思わぬことから苦しい撮影・放映スケジュールになったことは容易に想像できます。だからと言ってあれは無い、あの終わり方は無いというのが私の感想です。

長谷川博己、本木雅弘といった多彩な配役陣に加え、フル4kによるハイビジョン放送ということもあっ て話題を集めた「麒麟が来る」でしたが、コロナには勝てなかったと言うことでしょう。そしてこの連載もオシマイ。次号からは新たなテーマで書きたいと思っています。乞う、ご期待! 


八ツ寺町  (その16)

特集・麒麟が来る その5

 

新年明けましておめでとうございます。コラム「八ツ寺町」では、今年も県内の様々な話題を紹介して行きたいと思っています。どうぞ引き続きご愛読下さい。 

さて、話題の大河ドラマ「麒麟が来る」について書いていますが、今回はその5回目。今回は物語のクライマックス「光秀はなぜ信長を討ったのか」にスポットを当ててみたいと思います。テレビの放送予定では、27日が最終回ということなので、そこから逆算すると1月10日(第41週)から1月24日(第43週)あたりに「本能寺の変」の場面が登場するのではないかと思いながらこれを書いています。

  本能寺の変

  史上名高い「本能寺の変」が起きたのは、天正10年(1582年)62日の早朝であったと伝えられています。

 光秀はなぜ信長を討たなければならなかったのか。丹波国を与えられ、最も重用された家臣の一人であったはずなのに、これもまた多くの謎に包まれています。

 まず最も一般的なのが「怨恨」説です。本能寺の変が起きる3カ月ほど前のこと、武田討伐の最中に信長が光秀を衆人環視の場においてひどく折檻した。光秀はひどくこれを恨んだ、と記す軍記物もありますが信憑性は薄いとされています。同じように、光秀とその重臣であった斎藤利三が交渉にあたっていた長曾我部元親との約束を、信長が簡単に覆して四国攻めを決めたことが、光秀の面子を大きくつぶすこととなった。これが謀反の原因だという説。さらにはこれより3年前の天正3年に、光秀は信長の力によって宮家から惟任「これとう」の姓を賜っています。これは九州の日向国(宮崎県)の名族の姓であり、官位は日向守「ひゅうがのかみ」を授けられています。一見良い話に思えるのですが、遠き九州の地に赴任させられることを嫌がったのではないかという説もあります。文化人でもあった光秀にとっては、京都から遠く離れた辺境の地に赴くということは、耐えがたいことであったかも知れないというのです。さらには、もともと光秀自身が「いずれは信長にとって代わり天下を治めたい」という思いがあり、周辺の警護が手薄になった本能寺で実行に移したという説など実に様々な説があります。おそらくはどれか一つが原因と言うことではなく、いくつもの要因が重なった結果の謀反であったと見るべきでしょう。 


八ツ寺町  (その15)

特集・麒麟が来る その4

 

コラム「八ツ寺町」の15回目。話題の大河ドラマ「麒麟がくる」について書いていますが、今回はその4回目になります。明智光秀の幼少期から前半生にかけては「良く分からない」ということについて書いてきましたが、今回は諸説ある明智光秀の人物像の中から、できる限り絞り込んで書いてみたいと思います。

 

明智光秀と織田信長の関係は?

明智光秀が歴史の表舞台に登場するのは、織田信長が登場してきたおよそ14年の間です。最初は時の将軍足利義昭の側近14名の一人として登場してきます。京都に上洛後は、信長の特命によって将軍と信長の両方に仕えることとなります。幕府再興を念願とする義昭と武力による天下統一を狙う信長との思惑の違いから、やがて両者の関係は徐々に悪化、やがては将軍義昭が追放されていくことになります。

義昭の追放後、光秀は信長によって畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津の五つの地

域、現在の京都府・奈良県・大阪府・兵庫県にまたがる地域のこと)の旧幕臣たちの取りまとめという、非常に難しい仕事を命じられることになりますが、見事にこれをこなし信長の信頼を得て行きます。信長には元々「畿内支配の要職には譜代家臣を登用しよう」という思いがありましたが、譜代家臣たちが次々に失敗。天下取りの拠点としての畿内制圧を急ぐ信長は、結局ずるずると光秀を使い続けることになるのです。

 ところで、NHKの大河ドラマは1月に始まり12月に終了するのが通例になっていましたが、今回は女優・沢尻エリカの薬物事件関与や新型コロナウイルスの感染拡大により番組制作が大きく遅れてしまいました。そのため、「麒麟が来る」の最終回は新年の2月7日ずれ込んでしまいました。次回このコラムではいよいよ物語のクライマックス「光秀はなぜ信長を討ったのか」にスポットを当ててみたいと思います。


八ツ寺町  (その14)

特集・麒麟が来る その3

 

コラム「八ツ寺町」の14回目。前々回から、話題の大河ドラマ「麒麟が来る」について書いていますが、今回はその3回目になります。前回は、歴史的な資料が非常に少ないため、光秀の幼少期から前半生にかけては「良く分からない」のが実情だということを書きました。しかしそれではお話しにならないので、今回はもう少し光秀の実像に迫ってみたいと思います。 

明智光秀とは一体何者なのか?

新型コロナ騒ぎの影響により、放映が中断されてしまっているNHK大河ドラマ「麒麟が来る」ですが、このコラムが掲載される頃には再開されているかもしれませんね。

さて、明智光秀の実像が良く分からない理由として、いつ生まれたか分からない、父母が誰なのか分からない、どこで生まれたか分からない、などが挙げられます。下克上ドラマの主人公で超有名人であるにもかかわらず、こうした基本的なことすら分かっていないのです。ただ、全く分からないのではなく、「俗説があまりにも多くあり過ぎて、その中のどれが真実であるか分からない」ということでしょう。このため、多くの歴史学者や研究者たちを悩ませているのです。

例えば出生地についてですが、岐阜県内に伝わっている所だけでも四か所あります。

恵那郡明智町(現・恵那市)、可児郡明智庄(現・可児市)、山県市中洞地区、大垣市上石津多羅地区ですが、この四か所以外にも滋賀県犬上郡多賀町であるという説もあります。それぞれの地域が史実に基づいた根拠を持っているために、「ここだ」と特定できないのです。 

多くの歴史学者や研究者を悩ませた明智光秀ですが、現在では「光秀は美濃源氏・土岐氏の分家であり、土岐明智氏の出身であるだろう」というところに落ち着いているようです。


八ツ寺町  (その13)

特集・麒麟が来る その2

 

コラム「八ツ寺町」の13回目。前回から、いま話題の大河ドラマ「麒麟がくる」について書いていますが、今回はその2回目。もう少し明智光秀という人物の実像に迫ってみたいと思います。明智光秀と言えば、本能寺で主君・織田信長を討ったという話しがあまりにも有名であり、その名を知らない人はいないと思います。ところが明智光秀に関する確かな史料というのは非常に少なく、特に幼少期から前半生にかけては「良く分からない」というのが実情です。

 

明智光秀とは一体何者なのか?

大河ドラマファンの方ならお分かりだと思いますが、これまで放映されてきた他の大河ドラマでは、主人公の誕生から幼少期にかけてという場面が必ず放映されていました。

ところが、今回の明智光秀はいきなり大人の武将として第一回目から登場してきました。何故でしょうか? 前述の通り、幼少期から前半生のところが「良く分からない」ために描き切れなかった、というのが本当のところではないかと思われます。

 

歴史上の人物の氏・素性や生い立ちなどを知ることは、実像を知るうえで非常に大切なことです。しかしそのためには確かな根拠となる「信頼できる資料」が必要となります。信頼できる資料とは、手紙とか日記が最も望ましいものですが、本人が書いたものでなければなりません。子や孫あるいは周辺の人物が書いたものは、勝手な解釈が加えられていることを考慮する必要があるからです。明智光秀について書かれたものは、そのほとんどが江戸時代以降になってから書かれたものであり、信頼できる資料とは言えず、そのため「良く分からない」ということになってしまうのです。今回の大河ドラマでは、いきなり主人公が「大人」として登場して来ましたが、「よくわからないところは無理をして描かない」ということだろうと思います。ある意味では、歴史に忠実に制作しようとする作者の意図のようなものを感じます。皆さんはどう思われますか?


八ツ寺町  (その12)

特集・麒麟が来る その1

 

 コラム「八ツ寺町」の12回目。今回から、いま話題の大河ドラマ「麒麟がくる」について書いてみたいと思います。「麒麟がくる」と聞いて「ほう、そうか。それじゃ次は象が来るのか?」と言った人がいたとか、そんな話しはともかく、真面目に考察してみたいと思います。今のところ、このネタで3~4回は書きたいと思っていますが、さてどうなることやら・・・。

明智光秀とは一体何者なのか?

 明智光秀という人物は、主君・織田信長のもとで異例の出世をしましたが、「本能寺の変」で信長を討ってしまいます。そのため後世では「反逆者」「謀反人」としてあまり良い評価を得ていません。時は戦国、群雄割拠の時代であり、誰もが勢力拡大を狙って陰謀・策略をめぐらした時代であり、下克上は言わば日常的にあったこと。それなのに光秀のみが「反逆者の元凶」のように言われるのは少々気の毒な気もします。

 

 光秀の前半生については「良くわからない」というのが実情です。鉄砲の名手であったという説がありますが、それらは全て後世(江戸時代)になってからの著作物の記述なので、いささか信憑性に欠けるのではないかと思います。これら後世の著作物では、古今の武将・英雄について語る時、やれ鉄砲の名手であったとか、弓の名人であったとかという記述が多く見受けられます。物語を面白くするための常套手段であったと思われます。有名なのが坂田の金時のお話し。お山で熊と相撲を取って強くなったという話しですが、そんなことあるはずがない。いったい何が正しいのか良くわからない、ということがわかったところで、以下次回へ続く


八ツ寺町  (その11)

志野・織部のふるさと可児市

 会長コラム「八ツ寺町」の11回目。今回は木曽川を挟んで美濃加茂市の南東に隣接する「可児市」の特集パート2です。

前回は可児市の沿革を紹介すると共に、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」にスポットを当ててみましたが、今回は「志野焼のふるさと」としての可児市を紹介してみたいと思います。

昭和5年5月、陶芸家・荒川豊蔵(人間国宝・文化勲章受章者)は、名古屋の関戸家に伝わる茶碗を見ながらひとつの疑問を持った。その頃、こうした志野の茶碗は瀬戸で焼かれたものであるというのが定説であった。しかしどうも土の色が瀬戸にはないもののように思われる。故郷の美濃の土に似ている、というひらめきのようなものであった。

早速翌日から東濃の古窯を訪ね歩くうちに、ついに可児町大萱(当時)において名古屋で見たものと同じ陶片を発見。この発見は、志野・織部といった焼き物がこの地で焼かれていたことを実証し、それ以降美濃の古窯は次々と発掘され、桃山期における古陶の全容が明らかになっていったのである。

可児市の東部に位置する丘陵地は、このような歴史をふまえ明治まで美濃焼の主要生産地となっていました。その後は新しい産業にも力を注ぐようになり、昭和57年には全国650番目の市として市制を施行。その後平成17年には兼山町と合併し人口も10万人を突破し、可茂地域の拠点都市として今日に至っています。


八ツ寺町  (その10)

大河ドラマで脚光を浴びる可児市

 

 会長コラム「八ツ寺町」の10回目。前回は中濃の美濃加茂市とその特産品である「蜂屋柿」にスポットを当てて紹介させてもらいました。今回は木曽川を挟んで美濃加茂市の南東に隣接する「可児市」の特集です。

可児市は、愛知県との県境に位置するという地理的な条件から、1970年代より市の西部を中心に人口が急増、名古屋市のベッドタウンとして発展しました。そして東海環状自動車道の開通によって、工業団地の誘致や物流の拠点としても脚光を浴び、急速に成長をしました。その一方で、長塚古墳や次郎兵衛塚一号墳などの古墳群、明智光秀や森成利(蘭丸)の生誕地、志野焼の発祥地などとしても知られています。

  来年は日本にとって二回目となるオリンピック・東京大会が開催されます。まさにメモリアル・イヤーとなるでしょう。そのタイミングに合わせて、明智光秀を主人公とするNHKにとって第59作目となる大河ドラマ「麒麟がくる」が放送されます。このところ大河ドラマの視聴率低迷に悩んだ(かどうかはわかりませんが)NHKがフル4Kで撮影、従来とは全く異なる新しい解釈で英雄たちを描く「一大叙事詩」として、さらには大河ドラマの原点として作成・・・等々。とにかく大変な力の入れようなのです。この作品では最新の歴史研究で導き出された新事実を元に、「裏切り者」や「反逆者」というイメージが強い主人公・明智光秀の知られざる姿を描いていくということになっています。最近の歴史研究では、本能寺の変関する見解として「豊臣秀吉の黒幕説」や「斉藤道三は実は二人いた」といった考え方出てきているように、私たちがこれまで学んできた史実とは全く違った考え方や学説が出てきています。脚本家・池端俊策さんが描く本能寺の変の新たな解釈に期待が集まっています。特にドラマの前半部分は、明智光秀と斉藤道三の人間関係を中心に岐阜を舞台に描かれるということです。いずれまたこのコラムで特集してみたいと思います。とりあえず、乞うご期待!!


八ツ寺町  (その9)

釣枝柿(つるしがき)の故郷

 

 会長コラム「八ツ寺町」の9回目。前回は叙勲にまつわるドタバタの様子を紹介させてもらいましたが、今回からは通常のコラムに戻し、県内各地のよもやま話しをあれこれ紹介させて頂きます。そこで今回は、「蜂屋柿」にスポットを当ててみました。

JR高山線の美濃太田駅から車で10分ほどのところの丘陵地に蜂屋町引田というところがありますが、そこに釣枝柿の名品・蜂屋柿を生産する農家があります。蜂屋柿は富有柿と違って生食されるものではなく、皮をむいてつるし、干し柿として食用にするものです。干し柿の中でもこの蜂屋柿は、果実が大きく種子が少なく、かつ水分が少ないことから干し柿の中でも特に優良であるとして高い評価を得ています。

 

蜂屋柿の歴史は古く、具体的にその名が史実に登場するのは、桃山期から江戸前期ということですから、千年以上の歴史があることになります。密より甘いと称された蜂屋の釣枝柿は、江戸期に幕府への献上物として定着し、当時の蜂屋村は諸役免除の特典を与えられ保護を受けるようになります。しかし、明治期になり幕府の保護が打ち切られたことによって蜂屋柿の生産は衰退して行くこととなります。しかしその技術は大正・昭和と引き継がれ、現在では岐阜県を代表する特産品のひとつに上げられるまでに回復し、今日に至っているのです。


八ツ寺町  (その8)

叙勲狂想曲の巻! 

 

 会長コラム「八ツ寺町の8回目。このコラムでは、県内各地のよもやま話しにスポットを当てあれこれ紹介してきましたが、今回は特別編。というのも、昨年の秋の叙勲におきまして、不肖ワタクシが「旭日双光章」を頂くこととなりました。誠にありがたいことではありましたが、まさに晴天の霹靂。何せ未経験のこと(当たり前!)、叙勲とは?から始まってすべてが手探りの中でコトが進んで行くという、思わぬ経験をさせて頂きました。そこで今回はその顛末を少し紹介させて頂くことにしたいと考えた次第です。

 コトの始まりは昨年の3月中旬、県庁~連合岐阜経由でかかってきた一本の電話から。

 電話の内容を要約すると「貴方をこの秋の叙勲の対象として推薦したい。ついては、少々身辺の調査をさせてもらうことになるが良いか?また受賞を拒否することはないか?なお、本件についてはくれぐれも他言無用でお願いしたい」というような内容であったと記憶しています。つまり、叙勲の対象者には少なくとも半年以上前に何らかの打診があるということです。しかしそれからは何の音沙汰もありません。一体あの話しはどうなったのかと思い始めた頃に再び電話がかかって来ました。9月の18日のことです。私はこの前日に満70歳を迎えておりました。すなわち叙勲の要件のひとつである「満70歳を超えていること」をクリアした段階で2回目の電話がかかって来た訳です。その段階では、「貴方の叙勲についてはほぼ確定しているが、最終的な手続き(閣議決定)が終わるまではくれぐれも他言無用でお願いしたい」というものでした。

 10月の28・29日が閣議決定と聞かされていたので、ひたすらダンマリでいました。ところが25日に自民党の某国会議員から祝電が届いたのを皮切りに、主に保守系の国会議員、県会議員から続々と祝電が届き始め、そうこうしている内に今度は額縁や記念品を扱う業者から次々とカタログが届き始める。その内には家までやってくる、電話はかかるといった具合で、しばらくはセールスに悩まされる日々が続きました。

 11月5日に県庁において伝達式が行なわれ、古田知事から「勲記」と「勲章」を頂きました。そして翌日には夫婦で上京、7日に皇居において天皇陛下に拝謁し「お言葉」を頂くことができました。

 

 紙面の都合で十分お伝えすることはできませんでしたが、まことに慌しいこの半年あまりでした。めでたし、めでたし!!


八ツ寺町  (その7)

再びNHKドラマの舞台へ! 

 

 会長コラム「八ツ寺町の7回目。前回はこれまでと少し趣向を変えてNHKの朝ドラで一躍脚光を浴びることとなった東濃にスポットを当ててみました。 朝ドラの舞台も、全国各地を転々と回って行くものだと考えると、おそらく向こう40年間ぐらいは岐阜県に順番が回ってくることはないと思います。“半分、青い”の放送は今年の9月29日が最終放送予定となっています。このコラムを8月12日に書いていますので、あとひと月半あまりということになります。それにしても朝ドラの人気は大したもので、全国レベルの会議などに参加しますと、全国各地の皆さんから朝ドラについて話しかけられます。こんなにも多くの人たちが観ているのかと改めて驚いてしまいます。

さて、“半分、青い。”もあとひと月半で終わりかと思うと、少し寂しい気もします。

そんなことを考えていたら、なんと今度は2020年のNHK大河ドラマが「明智光秀」に決まったとのこと。再び岐阜が脚光を浴びることになりました。

ここで大河ドラマ制作にまつわるウラ話しをひとつ。ひとくちに大河ドラマといっても全てヒットする訳ではありません。当たり前のことと言ってしまえばそれまでですが、ヒットするにはそれなりの要素があるということです。いわゆる三英傑と言われる信長・秀吉・家康とそれにまつわる人物を描いたものはこれまで必ずヒットしてきたそうです。それと忠臣蔵。この二つを外さなければまず失敗はないとのことです。

どうしてそうなるのかは定かではありませんが、日本の真ん中で起きたことであり全国的に受け入れやすいということ、そして日本人の価値観や情感に合致していることがその理由だと言われています。

 

大河ドラマ「麒麟が来る」はNHKが大河ドラマの原点に立ち返って、明智光秀とその時代を駆け抜けた英傑たちにスポットをあてた青春群像劇ということであり、これはもうヒット間違いない!今から非常に楽しみです。


八ツ寺町  (その6)

朝ドラ“半分、青い。”の舞台 東濃

 

 退職者の会岐阜県支部協議会のホームページをご覧頂き、まことにありがとうございます。ホームページに掲載される内容につきましては、随時に事務局で更新をしています。これが時間と労力をかなり必要とするため、結構大変な作業となっています。しかし、最近は大分慣れてきたようで、更新のスピードも増してきたように思います。折にふれてホームページをご覧頂き、ご意見などをお聞かせ頂ければ大変うれしく思います。

さて、会長コラム「八ツ寺町の6回目。これまで岐阜から大垣、各務原と順に書いてきました。本来ならもう少し中濃の各市を紹介したいのですが、少し順番を無視してNHKの朝ドラで一躍脚光を浴びることとなった東濃にスポ。ットを当ててみました。 

ドラマ“半分、青い。”の「岐阜・故郷 編」の舞台となっているのが東美濃市にあるふくろう商店街というところ。もちろんいずれも実在しておらず、原作者北川悦吏子氏の創作によるものです。実際の撮影に使われたのは恵那市岩村町、さらにドラマの展開に伴って多治見市や可児市、美濃加茂市、土岐市、瑞浪市など各地で撮影が行なわれたようです。

 

さて、多治見・土岐・瑞浪の各市と笠原町は、瀬戸と並ぶ一大窯業地帯として発展しその歴史は奈良・平安の昔に遡ります。陶器の原料となる良質の陶土が、周辺の丘陵地帯に豊富に埋まっていたことが、この地域を屈指の陶磁器生産地に仕立て上げた主な理由であると言われています。この地域の陶業が最も盛んであったのは桃山期の頃と言われ、志野、織部、瀬戸黒、黄瀬戸など数々の名品が生まれました。しかしこのような茶陶作りは江戸初期までで、その後は磁器を中心とする日用品へと移って行きます。そして現在では、和洋の飲食器をはじめ、耐火煉瓦やタイル、セラミックス製品へと受け継がれています


八ツ寺町  (その5)

名古屋・岐阜・飛騨への拠点 各務原

 

 退職者の会岐阜県支部協議会のホームページをご覧頂き、まことにありがとうございます。ホームページに掲載される内容につきましては、随時に事務局で更新をしています。これが時間と労力をかなり必要とするため、結構大変な作業となっています。しかし、最近は大分慣れてきたようで、更新のスピードも増してきたように思います。折にふれてホームページをご覧頂き、ご意見などをお聞かせ頂ければ大変うれしく思います。

さて、会長コラム「八ツ寺町の5回目。今回は各務原にスポットを当ててみました。 

各務原と書いて、「かかみがはら」「かがみがはら」「かがみはら」などいくつもの呼び方(読み方)があるようです。

各務原市の名称は遠く奈良時代の美濃の国各務郡(かがみぐん)に由来します。そのため、かつて名鉄・各務原飛行場駅は「かがみはら」と称しました。そのため市民の間でも物議を醸したこともあったそうです。

ちなみにJR高山本線の各務ケ原駅は「かがみがはら」と言うそうです。昭和44年、貨物取扱量の減少と名鉄電車との競合による乗降客の減少によって無人化されましたが、各種自動販売機の設置やスクリーンテレビ、各種遊戯施設などにより近代的待合室を持つ国鉄再建のモデル駅となりました。しかし当初の段階においては、暴走族や深夜族のたまり場になるのではといった警戒心が働き、周辺の地域では激しい反対運動がまき起こりました。今では鵜沼以東への通勤者や通学に便利であるとの理由から概ね好評のようです。

 

さて、各務原の正しい読み方はとなると各地域に結構こだわりがあるようで、ひとつに決めるというのもなかなか難しいようです。ところで、我がNTT労組岐阜県支部協の波多野事務局長、小野事務局次長のお二人は、いずれも各務原市の住人。ここはお二人の意見を聞いてみたいと思います。次回、請うご期待!


八ツ寺町  (その4)

東西日本の回廊 西濃

 

 退職者の会岐阜県支部協議会のホームページをご覧頂き、まことにありがとうございます。ホームページに掲載される内容につきましては、随時に事務局で更新をしています。これが時間と労力をかなり必要とするため、結構大変な作業となっています。しかし、最近は大分慣れてきたようで、更新のスピードも増してきたように思います。折にふれてホームページをご覧頂き、ご意見などをお聞かせ頂ければ大変うれしく思います。

さて、会長コラム「八ツ寺町の4回目。これまでに八ツ寺町名の由来や岐阜そして大垣についてあれこれ書いてきました。今回は個々の都市ではなく、岐阜県という地域に目を向けてみました。

岐阜県を表す言い方として「飛山濃水」があります。これは、飛騨が山岳地帯、美濃が濃尾平野を中心とする水郷地帯であったことに由来しています。この「飛山濃水」という言葉、歴史的には必ずしも良い意味ばかりで使われていた訳ではなかったようです。

昔は県議会における予算の奪い合いから、山岳地帯と水郷地帯の対立を表す表現として使われていたそうですが、近年、特に平成になってからは、岐阜県の自然の豊かさを表す言葉として使用されるようになったということです。

 

近代史において美濃は上方と江戸という二つの文化圏の接点として回廊の役割を果たしてきました。それだけに「美濃を制するものは天下を制する」と言われてきたのです。天下を統一せんとした織田信長は、まず美濃を攻め、稲葉山城を新たな拠点として「天下布武」を目指しました。改めて東西の接点としてこの地を考えてみますと、天下分け目の大決戦と言われる「関ヶ原の闘い」も、この地で戦われる運命にあったように思えます。


八ツ寺町  (その3)

奥の細道むすびの地 大垣

 

 退職者の会岐阜県支部協議会のホームページをご覧頂き、まことにありがとうございます。ホームページに掲載される内容につきましては、随時に事務局で更新をしていますが、これがなかなか大変なようです。もう少し慣れてくれば、作業効率も上がり更新のスピードも増してくると思います。いましばらく気長にご覧頂きたいと思います。

 

さて、会長コラム「八ツ寺町の3回目。これまでに八ツ寺町名の由来、岐阜という地名の由来について書いてきましたが、今回は西濃に目を転じ大垣について書いてみたいと思います。

その昔、国鉄大垣駅(現JR大垣駅)の正面玄関を出たところに通称「カメ池」という池があり、その名の通り何匹かのカメが泳いでいました。カメが泳いでいることを除けば、何の変哲もないただの小さな池でしかありません。しかしこの池の水は、実は大垣を象徴する自噴水によるものでした。大垣市を中心とする西濃平野一帯が、わが国最大の被圧地下水による自噴帯であったことによるもので、大垣のことを水の都・スイトと呼ぶようになりました。

 

豊富な地下水は、近代工業にとっては魅力的なものであり、大正初期以降多くの工場がこの地に進出することとなり、県下第一の工業都市となって行きました。しかしこうしたことによって多くの水を消費した結果、ついには地下水位を低下させることとなり、昔のような自噴力はなくなってしまいました。

自噴水の町大垣は、また水運の町でもありました。内陸都市大垣の伊勢湾に通ずる重要なルートが水門川であり、ここを通る水門川水運は昭和になってもなお機能を持ち、昭和5年当時には年間およそ1万艘の船舶が通行したといいます。今では過去の賑わいを住吉燈台や芭蕉の蛤塚に偲ぶのみです。

 

奥の細道の旅を終えた芭蕉は、ここより船に乗り桑名に出て伊勢に向かうことになります。「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」と詠んだ芭蕉。時に元禄二年(1689年)9月のこととされています。


八ツ寺町  (その2)

  信長の 太平の夢 岐阜

 

 退職者の会岐阜県支部協議会のホームページをご覧頂き、まことにありがとうございます。ホームページを立ち上げてから、早いもので半年あまりが過ぎました。ホームページに掲載される内容につきましては、随時に事務局で更新をしていますが、これがなかなか大変なようです。もう少し慣れてくれば、作業効率も上がり更新のスピードも増してくると思います。いましばらく気長にご覧頂きたいと思います。 

 

さて、会長コラム「八ツ寺町の2回目。前回は八ツ寺町の町名の由来について書いてみました。今回はその続きとして「岐阜」という地名の由来について書いてみたいと思います。信長がこの地を岐阜と命名する場面は、太閤記を始めNHKの大河ドラマなどでこれまで何度も登場しています。諸説あるようですが、信長が直接命名したとする説と、信長の命を受けた尾張政秀寺の僧・沢彦宗恩が命名したという二つの説が主流のようです。そして命名の由来についても二つの説があります。ひとつは、中国で縁起が良い地名とされる「岐山」「岐陽」「岐阜」の中から選定したとする説。もうひとつは中国の故事に習い、岐と阜のそれぞれの意味を生かし組み合わせたという説です。どちらが真実であるか定かではありませんが、私は個人的に後者を支持したいと思っています。

  

岐と阜を組み合わせて命名したという説について、もう少し詳しく紹介します。

 岐阜の岐は、古代中国に実在した地名「岐山」に由来し、周の文王はこの地で800年の太平の世を築きました。岐阜の阜は、これもまた古代中国に実在した地名「曲阜(きょくふ)」に由来し、学問の祖である孔子の生まれた地です。岐と阜のふたつを組み合わせ「岐阜」と命名したのは、戦乱の世に終止符を打ち、太平と学問の地を築こうとする信長の熱い思いがあったと言われています。本当のところはわかりませんが、私はこちらの説の方が天下統一を図ろうとする英傑・織田信長らしいような気がして、どうしてもこちらの説を支持したくなってしまうのです。皆さんはどう思われますか。

 

正式な改称の時期は、「井口(いのくち)を改め岐阜とする」とした永禄10年(1567年)のこと、今年はそれから450年目の節目の年にあたるということで、岐阜市では様々なイベントが開催されています。分かっているようで、意外と分かっていないのが郷土のこと。これを機会にイベントに出かけ、郷土の歴史や様々な人物像に触れてみるのも案外楽しいかも知れませんね。


八ツ寺町  (その1)

  美濃を制する者は天下を制する

 

 退職者の会岐阜県支部協議会のホームページをご覧頂き、まことにありがとうございます。

以前からホームページを立ち上げたいという思いはありましたが、費用の面とかメンテナンスの手間とかといった様々な問題を考えると、難しさばかりが先に立ち、なかなか具現化することができませんでした。

 幸いにもこの度、岐阜地区協の会員の協力によりこれらの諸問題を解決でき、ようやく念願のホームページを開設することができました。

 

ご覧を頂きました通り、会長コラムを「八ツ寺町と名付けました。八ツ寺町は皆さんご存知の通り、NTT労組岐阜分会の事務所のある所、そしてその中に私たち退職者の会岐阜県支部協議会の事務局も同居しています。言わば、私たちの活動の拠点ということになります。退職者の皆さんの日々の暮らしや健康、時折々の政治的なテーマなど、少しでも役立つ情報を提供して行きたいと考えています。

 

ところで皆さんは「八ツ寺町」という町名の由来をご存知でしょうか。歴史的に考察をしてみますと、城下町・岐阜というキーワードが出てきます。面倒な話しを全部省略しポイントのところだけを解説しますと、戦国武将・斉藤道三が金華山に稲葉山城を建立し、ふもとの一帯に城下町を形成した。稲葉山全体を城地とするために、山上山下にまつられていた神祠(ほこら)をまとめて因幡神社(現在の伊奈波神社)を建立した。道三の没後、新たな城主となった織田信長の手によって、因幡神社の周辺に浄土宗・西山派の八か寺、善澄寺・含政寺・極楽寺・大泉寺・安楽寺・浄土院・誓安時・西光寺を移転させた。この八か寺は元々別の場所(加納村、八ツ寺町)にあったものであり、現在の八ツ寺町という地名はその当時の名残であり、その後の歴史の中で現在の場所となった、ということです。

 

今年は織田信長がこの地を「岐阜」と命名して450年の節目を迎えます。織田信長は岐阜城から眼下に広がる濃尾平野を眺め「美濃を制する者、天下を制する」と言ったとか(言ったのは斉藤道三だという説もあります)。現代を生きる私たちには「天下を制する」というような大それたことは到底できません。しかし、ただ黙って世の移り変わりを眺めて暮らすというようなこともできません。この世の中で起きている様々なことに正面から向き合い、不条理なことを許さず、社会正義を貫く集団として、着実な活動を展開して行きたいと思っています。